記憶の糸
「今日こそ絶対にサボらないでくださいね」
東方司令部の朝はいつもこの言葉で始まる。
机の上に山と詰まれた書類。
厳しい顔で更に書類を追加する女性。
リザ・ホークアイ。
階級は中尉。
あからさまに面倒だという顔で書類から目を背ける男性。
ロイ・マスタング。
階級は大佐。
「お分かりですか?」
「あ〜、はいはい」
明らかに仕事をする気が無い返事。
視線の先をたどると、司令部の向かいにある花屋の看板娘が開店準備をしている。
軍人とは思えぬ緩みきったロイの目。
それとは逆にすっと温度が下がるリザの瞳。
周りにいた部下たちは一斉に耳に指を突っ込みこれから起こるであろうことに備える。
ガシャリ…バーン!!!
乾いた金属音のすぐ後に鳴り響く凄まじい銃声。
銃弾はロイの鼻先を掠め、壁へとめり込んだ。
「お分かりですね、大佐?」
「……はい………」
返事と同時に、始業のベルが鳴り響く。
こうして東方司令部のいつもの一日が始まった。
「もう、聞いてくださいよ〜うちの彼ったら〜」
「はいはい、お惚気話ごちそうさま」
お昼の軍部食堂は今日も大勢の人でにぎわっている。
仕事の合間の貴重な休み時間。
むさくるしい男性の中でも、女性軍人の集まるテーブルには華やかな笑い声が絶えない。
普段は軍人という仕事をしていても、やはり中身は女の子。
ランチを食べながら、恋やファッションの話題に花を咲かせていた。
そこに今日は珍しくリザの姿がある。
「予定通り」ロイは2時間で脱走。
書類の残り具合と今後の仕事内容を考慮した結果、あと1時間で連れ戻しにいかなければならない。
連れ戻した後は、大抵ご飯を食べる暇も無いくらい忙しくなる。
ちょっと早いが、今のうちに昼食を取ってしまおう。
そう思い、食堂へ向ったリザは入り口で彼女たちとばったり会ったのだ。
「あ〜、私も彼氏欲しいな〜」
「周りにいっぱい男いるじゃない?」
「ダメダメ!あんなむさくるしい筋肉バカじゃなくて、もっと紳士で優しい人がいいのよ!」
その言葉に居た堪れなくなったのか、彼女の後ろに座っていた大柄の男性軍人たちは決まり悪そうに席を立っていった。
「でもその点、リザさんが羨ましいわ」
「えっ!?」
今まで聞き役に回っていたリザは、いきなり話を振られて驚いた。
「だって、あのマスタング大佐が上司なんですもの!」
「そうそう、軍人とは思えない優雅な身のこなし。あの優しさ。それでいて、戦いでは誰にも引けを取らない焔の錬金術師!」
「ホント、大佐に微笑まれて惚れない女性なんてこの世にいないわよね〜」
すっかりリザそっちのけできゃあきゃあ騒いでいる彼女たちに、執務室にいるときの大佐を言ってやりたいとリザは思わずにはいられなかった。
仕事はサボるし、鼻の下はすぐ伸ばすし、部下に無茶は言うし……
でも、彼女たちはきっとそれを信じはしないのだろう。
リザは周りにはわからない小さなため息をついた。
「見つけましたよ」
人気の無い書庫の一番奥。
窓辺に置かれた古いソファーの上にロイは横になっていた。
南向きの窓からは明るい光が差し込んでいて、売るぐらい書庫の一角ではあるが、中庭のベンチにいるのと同じくらい昼寝には最適である。
寧ろ、人目につかない分ロイには此方の方が都合が良かった。
「おや、見つかってしまったか」
しかし、ロイにあわてる様子は無い。
「今、何時だ?」
「もうすぐ1時になります」
「そうか……」
そういうと、ロイは再び目を閉じてしまった。
「そろそろ仕事に戻ってください」
「大丈夫、あと10分は余裕があるさ」
そう、この人はいつもわかっているのだ。
わかっていて、ぎりぎりまでサボるのだ。
「仕事を全て終えてから休めばいいじゃないですか」
「だって、今積んである分が終わったら、君はまた新しい仕事を山のように持って来るじゃないか」
「うっ……」
そういわれると、リザは何も反論できなかった。
過去にその手を何度か使ったことがあるからだ。
「あと10分だけですよ?」
結局、ここはリザが折れざるをえなかった。
「あぁ、優秀な副官がいてくれて助かるよ」
はぁ、とリザは大きなため息をつく。
その瞬間、リザの腕が強い力で引かれた。
不意を疲れたリザは崩れた体勢を元に戻すことができず、そのままロイの腕の中へと倒れこんだ。
「な、何するんですか!?」
「う〜ん、優秀な副官にご褒美の休憩をあげようかと思ってね」
「だったら、ご褒美は大佐が仕事してくださる方が嬉しいです」
「そんなこと言わないで。ほら、10分しかないんだから。大人しくしてないと落ちるぞ」
文句言いつつも、ぎゅっと抱きしめられると安心する。
そんなリザの気持ちをわかっているかのように、ロイは子供をあやすようにゆっくりとリザの背を撫でる。
ロイの手がリザの左肩に触れる。
その手がほんの僅かだがぴくりと動いたのがリザにはわかった。
軍服の、普段見えないその下にあるのは火傷の痕。
その痕をつけたのはロイ。
それを頼んだはリザ。
痛みは全く無い。
しかし、未だにロイにそこを触れられると知らず知らずのうちに力が入る。
ロイもそれを感じ取ったらしい。
すっとそこから手が退く。
この傷が自分とロイをつないでいる。
自分とロイは単なる上司と部下という関係ではない。
だが、恋人などという言葉では言い表すことができない。
互いに支えあい、前に進む。
それは2人というより、寧ろ1人。
一蓮托生。
そして、この傷のお陰で自分は焔の錬金術の継承という役目を降り、リザ・ホークアイという個人を保っていられる。
しかし、そこには同時に苦しみもついてきた。
殺さなければ殺されていた。
大切な人を守るために引き金を引く。
そうはいうものの、人を殺したことに変わりはない。
この傷はその人たちの命の重み。
傷に触れられるたび、胸が痛む。
それは、ロイも同じだ。
『イシュバールの英雄』『焔の錬金術師』と共に『人間兵器』と呼ばれることになった戦い。
錬金術よ大衆のためにあれ。
この言葉の実現のために目指した国家錬金術師。
結果、自分は錬金術により罪の無い多くの人の命を奪うこととなった。
重く苦しい過去。
2人でいると、その記憶は消えることは無い。
お互いがお互いの傷を抉り、そして慰めあう。
この傷があるから、この痛みがあるから苦しい。
この傷があるから、この痛みがあるから共にいられる。
ロイの腕の中にいながら、リザはさっきの出来事を思い出していた。
明るい顔で、頬を染めながら嬉しそうに自分の恋人のことを語る女の子たち。
今の関係が嫌いなわけではない。
寧ろ、ロイとの間に強い絆を感じる。
けれど、リザは思わずにはいられない。
もしもこの傷がなかったら……
もしもあの戦争がなかったら……
父の弟子としてではなく、軍人としてではなく、どこにでもいる普通のカップルのように出会えていたら…
私はあんな風に笑っていられたのだろうか……
タイムリミットまであと3分。
リザは全てを心の奥へと押し込むかのようにぎゅっと目を閉じ、ロイの胸に顔をうずめた。
「こうなることはわかっていらしたはずでしょう」
太陽は西へと傾きながら、今日最後の光で地上を真赤に照らしている。
そろそろ仕事も終わり。
大きな事件もなく、一日が過ぎようとしている頃、ロイの執務室はさながら戦争のようだった。
山積みにされた書類に片っ端から物凄いスピードでサインをしていくロイと、あきれた目でそれを眺める部下たち。
これもまた、朝同様、いつもの夕方の風景である。
「あと10分です、大佐」
「くっ、わかっている」
「だからあの時大人しく仕事に戻ってればよかったのに……」
「…………」
追い詰められているからか、それともいつものことで慣れてしまっているのか。
尋常ではない速さで見る見るうちに未処理の書類の山が低くなっていく。
こんなこともあろうかと、あらかじめリザがより分けてくれているので、ほとんど目を通す必要が無いというのが最大の理由かもしれないが…
そんなこんなで、終業のベルが鳴ると同時にロイはなんとか最後の1枚にサインを終えることが出来た。
「お疲れ様です、大佐」
机の上でぐったり伸びているロイをよそに、リザは散らばった書類を集めてチェックする。
「あ、大佐、仕事終わったんすか?」
丁度そこへハボックが入ってきた。
「これ、今日の分の郵便っス」
見ると手にはロイ宛の封筒の束を抱えている。
司令部に届く郵便には、軍内部からのものと、外部からのものがある。
テロなどの攻撃を防ぐため、外部からの郵便物はもちろんのこと、軍内部からの郵便物にも金属探知などの厳しいチェックが行われる。
ロイのところには他の人よりも比較的多くの外部郵便が届くため、チェックに時間がかかり、郵便が夕方になるのも良くあることだった。
その理由は……
「あぁ、ご苦労」
色気の無い軍部仕様のくすんだ封筒の中にちらほら混じるピンクやオレンジのカラフルな封筒。
「ううぅ…オレも一週間にラブレターの一通くらいもらいたいッス……」
そう、ロイ宛の軍部以外の郵便の多くはロイへのファンレターやラブレターなのだ。
「ふっ、日々精進することだな」
ハボックの羨みに視線の中、ロイは嬉しそうに封筒を受け取る。
その横ではリザが呆れた表情で、引き続き書類のチェックを行っていた。
「ふむ、これはキャシー、こっちはイザベラか…」
いつも手紙をくれる馴染みの女性たち。
そんな中、ロイの手がふと止まった。
他の封筒より色を抑えた淡いピンク。
そこに書かれた差出人の名前は「エリザベス」
見慣れたこの名前。
これはリザがいつもコードネームとして使用しているものだ。
そして、ロイの知人でこの名を持つ人はいない。
これは一体どういうことだろうか……
見知らぬ人から手紙をもらうということが無いわけではない。
寧ろ、他の人と比べたら多い方だろう。
ちらりとロイはリザの方を見たが、リザは先ほどと変わらず書類のチェックを続けている。
少し考えたが、これが他のと同じラブレターなら特に問題も無い。
そして、これがリザからのものだったならば、あえて名前を変え、手紙という手段をとったことには何らかの意味があるのだろう。
ならば、彼女の考えにのるのも一興。
ロイは封を開け中の便箋を開いた。
その瞬間、青白い光が辺りを包んだ。
「なっ!?」
いつも目にするこの光……これは………
「練成反応!?」
ロイは反射的に手に持っていた便箋を放り出した。
そこにはさっきまではなかった練成陣が赤黒く浮かび上がっている。
「皆、逃げろ!」
ロイの叫び声に、執務室にいた部下たちはあわてて机や棚のかげへと隠れ身体を伏せる。
ただ、リザは違った。
「大佐!」
そう叫ぶと、光の中心にいたロイのもとへと駆け寄る。
「来るな!」
ロイはリザを突き飛ばそうとした。
その瞬間、爆発音と共に強い風が巻き起こった。
「くっ…」
かすむ視界の中、ロイは今まさに飛ばされようとしているリザの姿を捉えた。
「リザ!」
とっさにロイはリザを抱き寄せる。
しかし、体勢を崩したロイは、リザを抱きかかえたまま、風圧に押され壁へと叩きつけられた。
後頭部を激しい痛みが襲う。
薄れ行く意識の中で、ロイは自分の名が呼ばれるのを聞いたような気がした。