大人の純情
はぁ…
今日、何度目の溜息だろう…。
ロイの前の書類の山は、いつもの通り全く低くなる気配が無い。
ただいつものと違うのは、本人がサボって逃げ出しているのではなく、机の前にすわっているという点だ。
サインをしようと、手にペンを持ってはいるものの、腕が重くなかなかサインできない。
書類の内容を確認しようにも、文字が全く頭に入ってこない。
はぁ…
どうしてこうなってしまったのやら…
ロイは書類から顔を上げて窓の外に目をやった。
少し離れた訓練場では、汗を流す兵士たちと、その指導をする上官たちの姿が見えた。
体格のよい男性の中に、遠くからでも一目でわかる小柄な身体と鮮やかな金髪。
はぁ…
本当に私はどうしてしまったんだろう…
そう、きっかけは昨日の夕方だった。
いつもはギリギリまでだらだらとしているのだが、昨日は珍しく終了時間前に仕事が終わった。
私がちょっと本気になればこんなもの…
いつもはうるさい部下もまだ執務室に現れない。
たまには私から書類を持っていくか…
ロイは書き上げた書類をかかえ、部下のいる部屋へと向かった。
ドアを開けると、そこは妙に静まりかえっていた。
壁の出勤表を見ると、ハボックやブレダなど、主だったものは訓練や視察に出ているらしい。
残っているはずのものも、急な仕事でも入ったのか、席を外している。
「なんだ、誰もいないのか…」
せっかくたまには有能なところを見せようと張り切ってきたのだが、これでは拍子抜けだ。
仕方がないので書類だけでも置いていこうと、ロイは部下のデスクへと向かった。
一番奥の窓際、そこがホークアイ中尉のデスクだ。
並んでいるデスクをよけるようにぐるっと回って目的地へつくと、積まれた本と書類の陰になって、前から見えなくなっているところに、彼女はいた。
「中尉、書類を…」
声をかけようとしたロイはハッとして言葉を飲み込んだ。
そこにはすやすやと気持ちよさそうに寝息をたてている中尉の姿があった…
優秀な軍人である彼女は、たとえ軍の中にいても隙を見せない。
背後から人が近づくとすぐに気が付く。
しかし、今はすぐ後ろにロイが立っているのに目を話す気配も無い。
思い返せばここ数日、立て続けに起こる小さな犯罪や、ロイが溜め込んでしまった書類のせいで、帰るのはいつも日付が変わる頃。
疲れきっていて、目を覚まさないのも当然である。
こんなに疲れているなんて…
いつも仕事を溜め込んでいる上に、サボって逃げ出した上司を探し回らせるなど、余計な仕事を増やしているロイは申し訳なくなった。
自然に目が覚めるまでこのまま寝せておいてやろう…
どうせもうじき、皆がもどってくると、嫌でも目が覚めるだろう…
しかし、太陽はすでに大きく西へ傾きかけており、風も少し冷たくなっている。
いくら暖かい季節とはいえ、やはり夕方はまだ少し肌寒い。
何か掛けるものはないだろうか…
そう思い、ロイは周りを見回したが、ちょうどいいものが無い。
仕方が無いので、自分の着ていた軍服の上着を脱いだ。
起こさないように、そっと近づく。
そっと中尉の肩に上着をかけると、ロイはその顔を覗き込んだ。
普段と違う無防備な表情…
閉じられた瞳にいつもの鋭さはなく、長いまつげが蔭を落としている。
窓から差し込む夕日の光は、彼女の頬を赤く染めている。
そして、その頬よりも赤くやわらかそうな唇。
何故だ…目が離せない…
そっと立ち去ろうと思うのに、まるで根が生えたように足がその場から動かない。
その頬に、その唇に触れたい…
ロイの指が赤く染まった頬にそっと触れる。
どうするつもりなんだ…
考えてみても、答えはない。
思考回路がストップする。
ロイの顔が近づいていく。
あとほんのわずか。
かすかな息がロイの顔に届く。
唇に触れようとしたその瞬間、眠っているはずのリザの顔がやわらかく微笑んだ。
その唇が小さく動く。
「……ロイ……」
急に名前を呼ばれて、ロイは弾かれたように後ずさった。
その気配に、中尉の閉じられていた瞳がパッと開く。
「…えっ、大佐っ!?どうなさったのですか?もしかして私、今…」
「いや、何にもしてないぞ!ホントだ!!!」
まさか、あのタイミングで名前を呼ばれるとは…
しかし、私は何をしようとしていたんだ!!!???
「ふふふふ…」
ふふふふ…???
声のするほうを見ると、そこには必死に笑いをこらえるリザがいた。
「すみません…あまりに大佐が慌てているものですから…」
「あっ…いや…」
まさか、眠っている貴女にキスしようとしていたなどと、言えるわけが無い。
もごもごと口ごもる上司を見ていたリザはふと自分の肩に掛けられていた上着に気がついた。
「もしかして、これ、大佐の…」
「あぁ、気持ちよさそうに寝ていたし、夕方で少し冷え込んできたから…」
「申し訳ありません…」
上着をリザから受け取ると、ロイは先ほどのことを思い出した。
「そういえば、なんだか微笑んでいたみたいだが、いい夢でも見ていたのかね?」
「えっ…///」
夕日のせいだろうか、リザの顔が真っ赤に見える。
それを見て、ロイはさっきの言葉を思い出した。
『ロイ』
いつもの役職ではなく、彼女が口にしたのは彼の名前。
ロイは自分の顔が赤くなっていくのが分かった。
でも、これだけ綺麗な夕日なんだ…
きっと彼女が気づくことはないだろう…
ロイの胸の中には、今までになかった、小さな何かが誕生しようとしていた。